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クレバスと炸薬亭

映画や本、お芝居などのレビューを中心にやってくよ。

アシュラ/野生の慈悲

僕が講師をやっている授業では、たまに既存の映像作品を鑑賞して、みんなで分析する。

今回は問題作『アシュラ』でした。

これはジョージ秋山原作の漫画からのアニメ化。

平安末期の飢餓の中、狂女の子として産み落とされた子アシュラの物語です。

マガジンで連載されていたらしいですが、なんとまぁショッキングな作品であったろうと思います。

生きるためにアシュラは人肉すらも口にしてしまうのですから、これはもう少年漫画ではかなりの冒険だったでしょう。

親の愛も言葉も知らぬアシュラにとって、人が人を殺すなかれ、人を食らうなかれ、という倫理は彼一人のサヴァイバルにとってまるで無関係なものだったのですね。

だから、彼は躊躇いなく人と殺し食べます。この凄惨な無垢。なかなかのパンチがあります。クラスの連中には、このようなカニバリズム、人肉食のケースは他に何が考えらるか、ということで訊いてみました。

出てきたのは、

飢餓や遭難の栄養源として

宗教儀式として

個人的嗜好として

だいたいこの3つに当てはまるんじゃないでしょうか。アシュラの場合は最初のケースですね。これは歴史上たびたび行われてきました。というか、数限りなくあったんじゃないでしょうか。

宗教儀式としては、インドで教えてもらったアゴーリ派の修行者たちのように死肉を食らうという行を行う人たちもいますし、古代のシャーマンの中には、殺した相手の肉を食うことでその霊的パワーを取り込めると信じた人たちもいました。

最後のは、もっとも忌まわしいものですね。純然たる趣味。佐川一政という人が有名ですね。こわー!!!

アシュラは多くの人間に「おまえは獣だ」と罵られますが、実に、これ獣というより獣以下。動物も基本的には共食いはしません。共食いするのはザリガニとか、そのあたりの連中だよね。

それをやってしまうというのは、哺乳類としては画期的な欠陥なんだよね。画期的な欠陥って言い方も変だけどさ。

ともかく重要なロックが外れてしまっている。

しかーし! その外れたロックは人間に新しい光輝を与えもする。

作中に出てきた自己犠牲。人間を食うというアシュラにある僧侶は自分の右腕を切って差し出すのだ。ある意味、これもタガの外れた人間ならでは行いでしょう。

なぜこのふたつの両極の行為が与えられているのでしょうか。この圧倒的な自由度がなぜ?

というのが、僕が読み取ったこの物語のテーマでした。

$続・エビで龍を釣る

アシュラが最初に覚えた言葉が「南無阿弥陀仏」というのにも意味があります。

最後にアシュラは出家し仏門に学ぶことになるのです。将来彼は高僧になるという設定なのですが、それは蛇足でしょう。

人間の大きな振幅を身をもって経験したアシュラが、変転の後にどちらの極についたか、それが重要なのであって、宗教の教条的な慈悲が大事なのでもない。

まだ仏法がない時代、仏陀は前生で野うさぎだったとき、自らを火にくべて、他人の飢えを満たしてあげました。

本当かどうかは知らないけど、そういった何か、教えなき世界にもある慈悲の衝動。

そのような生きとし生けるものがもっている野生の慈悲とでもいったもの、アシュラはそれに目覚め、それを奉じることに身を捧げたのでした。

おススメだギャ!