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クレバスと炸薬亭

映画や本、お芝居などのレビューを中心にやってくよ。

キム・テフンのこと

遡ること十ウン数年、ぼくは中国大陸に暮らしていました。

香港返還ののち、マカオの返還に沸き立つ歴史的なポイントでした。

それはヨーロッパの植民地主義のくびきから脱したアジアの巨龍が大きく身を揺るがした年だった。

なんていうと難しいしカッコつけすぎだけど、本当に何かが大きく変動していたことは確か。ちっちゃな火花が一挙に大火となるような緊張と狂熱がありました。

僕は留学中で、韓国人のキム・テフンとルームシェアをしてた。

中国と韓国。中国の地で韓国人と生活すること。

このふたつの国はよくもわるくも日本と断ち切りがたい縁を結んでいる。お互いがお互いの姿を眺めて己をアイデンティファイする。それなしでは自己像をうまく描くことのできないようなそんな関係。

愛憎は深く。どこまでも迫ってくる。こちらからもあちらからも。

向こうには、共産主義にかぶれた左翼の日本人学生もいたし、反対に中国の歴史観に真っ向から切り込む日本人留学生もいた。

中国人も多様で一筋縄ではいかない。昨日まで仲良くしていた中国人が、ささいなことをきっかけに集団で日本人を攻撃するさまも観た。一抹の後ろめたさを感じつつも、外国人を擁護する中国人もいた。

韓国人はといえば大抵フレンドリーだった。でも、その中にやはりどこか明確な一線を引いて日本人に接しているようなよそよそしさも感じた。

根を張ったキリスト教文化と徴兵制からくる体育会系の汗くささ。

もちろん他にもいろんな人種がいた。麻薬に溺れたフランス人が麻雀に負けたはらいせに宿舎を窓ガラスを叩き割る音を何度耳にしたか。

門限を過ぎて門を閉ざされたパキスタン人がはらいせに宿舎の入り口にレンガを積んだり笑

入れないなら、中にいるやつも出られなくしてやる。みたいな。

はらいせ系多いな。

いろいろあったが、どれも日本からほとんど一歩も出たことのない僕には新鮮だった。

ルームメイトのキムは、団結の強い韓国人留学生社会からすると異質な存在で、どこか同胞たちから浮いていた。いい年して軍隊に行っていないことで、男たちの世界からは爪弾きにされてたし、本人もそれを望んでいるようだった。

韓国人たちが、隣の部屋でミサをしているとキムはメタルやヘヴィ・ロックを爆音で流したり、下手くそなギターを奏でたりしてそれを邪魔した。

セパルチュアとかそういうのを何度も聴かされたような記憶がある笑

なにやらインド人の書いた書物を愛読していて、僕にも勧めてきたが、ハングルではもちろん読めなかった。帰国して何年ものち、それがOSHOことバグワン・シュリ・ラジニーシという人だと知った。

とにかく変わった男だった。少なくとも韓国人社会に馴染めなくて息苦しくてとてもやってられなくて海外に飛び出してきたクチだ。

酒を飲むとやたらベタベタしてホモっぽいところ以外は大好きだった。

同胞から真っ向から嫌われてへっちゃらだったし、韓国の村社会を罵倒するさまも痛快だった。

破天荒なぶんだけナイーブで、思い込むところが強いだけに疑念もまた深かった。

韓国人らしくあろうとすることを拒否することで、彼はますます韓国人であることを見つめざるを得なかっただろうけど、それでも彼は巨大な同調圧力に逆らうことをやめなかった。

少なくとも僕が知っている彼はそうだった。

彼のことを思い出すことも減った。いまはどうしてるだろう。屈したんだろうか。それとも逆らい続けてるんだろうか。どちらでもただ生きていてくれたらうれしい。

当時、僕もまた帰国したら日本という同調圧力と戦うことを強いられた。強いられることがわかってた。

キムの生き方はある指針と勇気を与えてくれた。他と隔たって屹立してあることを目指すあまり、どこか凡庸になってしまう、それすら恐れなかった。

礼を言い忘れた気もするし、僕らにはそれは不要である気もする。

神妙な面持ちでミサ曲も歌うこともできず、兵役で仕込まれるはずの軍歌も口ずさめなかった彼は、だから欧米のどうしようもなく破壊的な音楽に耽溺するしかなかった。

年輪を重ね、ヘヴィ・ロックでシャウトするのにも疲れ果てたとき、あいつはどんな歌を歌うんだろう? 

いまも抵抗の歌を歌ってるんだろうか。