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クレバスと炸薬亭

映画や本、お芝居などのレビューを中心にやってくよ。

母なる証明

http://www.lovepiececlub.com/ikiru/2009/09/post-54.html

「退職か中絶かを迫るのが世の母親達の普通の意識なのだとしたら、それは子供に必ずメッセージとして伝わる。世界はお前たちをいつでも殺せるのだと、お前たちは祝福されていないのだと、仕事やカネと交換可能な取るに足らない存在なのだと。」twitterより(タクラミックス氏)

上のブログとそれに付したタクラミックス氏のコメントを眼にし、僕はポン・ジュノ監督の『母なる証明』という映画を思い出した。

$続・エビで龍を釣る

これは殺人の容疑をかけられた知的障害を持つ息子の無実を証明するためにその母親が奔走する物語である。奔走の果てに母は、息子の無実どころか、その逆の真実を発見してしまう。

しかし母親は倫理も道徳も踏み越えてそれを抹消する。

なんという情なのだろう。血縁と地縁にからめとられた韓国社会の泥濘のような身動きの取れなさを描出した傑作だが、これが本当に「母性」なのだろうか? 

母性とはたかだかこんなものなのだろうか。野生の本能に感情のトッピングをまぶしたものが「母なる証明」と言えるのか? 確かにとてつもなく濃厚で強烈な情ではあるが……。

もうひとつ。一昨日に見た別の映画の話をしたい。「インポッシブル」

$続・エビで龍を釣る

スマトラ地震で、津波を奇跡的に家族全員が無事に生き延び、奇跡の再会を果たした実話をもとにした映画だ。ユアン・マクレガーナオミ・ワッツがスペイン人夫婦として出演している。

母マリアと息子ルーカスが、見渡す限りの水浸しの瓦礫の中で、助けをもとめる子供の声を聞くシーン。

マリア「助けなきゃ」

ルーカス「人助けをしてる場合じゃないよママ。早くあの樹に登るんだ。いつ次の(津波)が来るかわからない」

マリア「あれが○○や○○(ルーカスの弟たちの名前)だったらどうするの?」

ルーカス「……あいつらなら、とっくに死んでるさ」

マリア「でも助けるのよ」

そして助け出した子供はもちろん、ルーカスの兄弟ではないし、マリアの息子でもなかった。見知らぬ子供である。この時、母マリアは濁流の中の枝で肺腑を傷つけ、片足も骨が見えるほどの怪我を負っていた。

これが『母なる証明』に出てくる母親であれば、自分の息子を危険にさらしてまで他人の子供を救おうなどと考えもしなかったはずだ。しかし、もうひとりの母マリアは、ルーカスを鼓舞し、なけなしの体力でもって縁なき命を救う。

韓国映画の母親からしてみれば、これは母なる者の行状ではない。なによりもまず自分の子供の安全を確保しなければいけない。

インポッシブルの母マリアは違う。母であることとは、近親の情を超えた愛というものの存在を身をもって示唆することだ。

それを学ぶための機会を与え続けること。命の瀬戸際であっても。

それより他に母であることの意味はない。逆に言えば、それを子に伝えることができれば、母であることは全うされる。マリアはそう考えた人だったろう。

実は僕の母親は、祖母の本当の子供ではない。引き取られて育てられた子だった。それでも母親は他の兄弟たちと分け隔てなく育てられたし、僕も他の孫たちと分け隔てなく可愛がってもらった。

子供の頃、地域共同体では、近所のガキどもは、大きな家族のように育った。友人の家を我が家のように出入りしたし、我が家もみんなの家だった。

どこのオバちゃんも近所のガキどもを自分の息子のように(手荒に!)扱ったし、それでよかった。

シンナーでよれよれになった他人の息子を叱り付ける肝っ玉母ちゃんだっていた。

そんな母たちにとっては、グレたワルガキだってその分だけ可愛い息子だったんだろう。彼女たちにとって忌避すべき悪や、眼を覆うような邪まさがあったろうか。いや、多少、道から外れていても、そうであるだけに愛すべき「我が子」と見なした。

この世に救いがたい邪悪さという、ほの暗く湿った片隅を認めなかった。つまるところどんな飲んだくれもろくでなしもバカも、息子たちのひとりに過ぎなかったから。

そして子供たちは、この大いなる肯定性を、それだけを「母」と呼ぶことにした。

これをもって母なる証明としたい。お集まりの皆さんに異論がなければ。