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クレバスと炸薬亭

映画や本、お芝居などのレビューを中心にやってくよ。

怪力乱神ヲ語ラズ

酒見賢一の「陋巷に在り」を読んでいます。孔子の弟子顔回の物語です。

顔回は天才的な童乱(タンキー)=シャーマンで、様々な場面で孔子のピンチを救うのですが、そういった霊的能力は孔子自身が捨てようとしたものなのでした。

有名な「怪力乱神ヲ語ラズ」という言葉がある。

つまり人知では推し量れない超常的なものについて口に上らせなかったということだ。

孔子は、しかし「語らず」にはいたが、それが存在しないと考えていたわけではない。

このあたりが孔子自身の、またはこの物語そのものの捻れとして描かれていて面白い。

これを読んではじめて知ったのだが儒教の「儒」とは「需」の字を語源とし、濡れるといった意味を持っていたそうだ。

需とは雨乞いの意。レインメーカーたち総称であった。

孔子以前の儒者とは、「需」、つまり雨乞いを生業とするシャーマンたちだったそうだ。その一族に生まれた孔子もそういった霊的な儀式や文化に馴染んでいただろう。

むしろ普通のものとして肌身に感じていた。

母である「顔徴在は尼山にある巫祠の巫女で、顔氏の巫児である」と史記にはある。孔子にもそんな血が流れていたはずだし、もしかしたら人一倍霊感体質だったかもしれない。

それでいながら、諸々の神霊や祖霊、天神地祇、鬼神たちを敬して遠ざけた。

なぜだろうか?

人間が人間であるために共有すべき基盤として、そういったものたちが必ずしも必要でないと見抜いたからだ。

これは現代のスピリチュアリズムやオカルト思想に向ける痛烈な批判にもなりえると思う。いや孔子の生きた時代がそれだけ呪詛や怨嗟に満ち満ちていた時代だったから、あえてそんな極端な振る舞いが必要だったのかもしれません。

原始的儒教の中から孔子が切り捨てたシャーマニックな部分はその後、道教に吸収されたものも多かったろう。つまり消え去りはしなかった。それはいつもある。歴史の暗がりに蹲る何か、人間の余白に書き込まれた何かとして。

殺し去ってはならないが、その跳梁を許せば秩序は崩壊してしまうような何か。それが霊的な次元なのだとしたら、僕は孔子の選択に共感する。

霊的なご宣託は、世界を複雑にしてしまう。大層なお題目のもとに、単純であるべきことを煩瑣にしてしまうこともあるしね。

ただ、やはりどこかでそういった人たちや能力は必要なのだと思うのね。

たとえば愛する人を事故的に手をかけて殺してしまった人、幼い子供を誤って殺めてしまった親はどうすれば救われるのか?

誰かが子供は幸せだったと言ってやる必要がある。短い人生であっても生まれてきたことが幸せだったと。しかし、カウンセラーが言うのでは気休めにすぎない。

霊的な次元が必要だ。知るはずのないその子の生前の姿や好みを言い当て、その子の声を語り、その子に替わって父母を安んじてやる誰かが。そうでなければ決して救われはしないだろう。

逆に言えば、その程度の能力もないのなら、霊的な能力の必要はどこにあるんだろう?

わけのわからない、どうとでも取れる世界を、わけのわからないどうとでも取れる言辞で語るだけでは仕方がない。そりゃたまには何がか真実をかすめることもあるだろう。

しかし、チンパンジーが弾いたピアノも曲らしく聴こえることもあるという意味では、別に驚くには当たらない。

探っていけば、いくらでも深く意味が取り出せるだろう。宇宙は無限に玩具を与え続けてくれるだろう。でも、玩具そのものより、その与え手を注視したほうがいい、と僕は思う。

その無限の与え手だけは間違いなく存在していると信じている。

ラーマクリシュナも「玩具を投げ捨てて呼べば、宇宙の母は、鍋の火を止めて我が子のところへ飛んできてくれるのだよ」みたいなことを言っていた。

またこうも言っていた。

「幽霊のことばかりを考えていればおまえは幽霊のようになるだろう。神のことだけを想っていればおまえは神のようになるだろう。ねえ、どちらがいいかい?」