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クレバスと炸薬亭

映画や本、お芝居などのレビューを中心にやってくよ。

その夜の侍/真空パックされた仇討ち

その夜の侍。

$続・エビで龍を釣る

昨日ひょんなことから時間ができたのでビデオ屋に行ったところ、借りたかった『ジャンゴ』も『ウィンターズ・ボーン』もなかったのでこの作品を借りました。

これは演劇の映画化らしいのですが、僕の知っている演劇っぽい要素というのはあまり感じませんでした。逆に言うと、スムーズに映画へのアレンジを成功させているのかもしれません。

劇の方と見比べてみたい作品です。

感想としては、これはかなり衝撃!!!

ひき逃げで妻を殺された中村(堺雅人)と殺した男木島(山田孝之)の対峙がクライマックスになるのですが、それまで中村は執拗に木島を付回し、「おまえを殺して、おれも死ぬ」という脅迫状を毎日送りつける。

面白いというか、意外だったのは、この異常とも当然とも言える中村の復讐心。それが見かけとは違うものだったということです。これ以上言ってしまうとネタバレになってしまいそうなので止めますが、その着地点が興味深かったし、見終わって一夜経ち、いまだ考えさせられる部分です。

ともかく主演二人のキャラが素晴らしい。両方ともちゃんと狂ってます。

死んだ妻のブラジャーを持ち歩く中村もいいですし、あっという間に暴力に傾く癖に「飽きた」の一言で途端に状況を投げ出す木島も。

木島の暴力には憎悪が感じられません。その場その場の排泄のようにそれは行われます。

暴力の場面でとくに排泄と結びついてます。「屁しか出なかった」とトイレから出てくる木島。排便が滞りなくできないのは、それをする必要がないから。その欲求は暴力として表現されてしまったからです。

すべて出してしまえば、それ以上はしたくてもできないのが排泄です。

だから、ある一定の暴力がそこに吐き出されてしまえば、もう気は済んでしまう。同じ理由で木島にとってはセックスも排泄に過ぎないのでしょう。

本当の欲望を抱いたことのない男が、それゆえに激しく狂って見える。その実、内側に何も燃焼するものを持たない。

この突出した空虚感はほかの登場人物にも見受けられる。

「暇だから」と木島の暴力に加担する同僚の中年。「とてつもなく暇だから」と身体を売るデリヘル嬢。

暇だけど何もしないことに耐え切れないのはみんな同じです。

暇だからといって全存在を賭けるほどの何かを探しにいくこともしないのも。

同じ空虚が、激しく見えることもあれば安穏な日常を縁取ることもある。平凡で居たいんだと表明する同僚小林も、それでいながら木島と離れようとしないのはなぜだろう?

離れていこうとする小林を木島が引きとめようとするとは思えない。回りに人間がいる・いないに関わらず空虚はそこにあるとたぶん木島は知っているだろう。

木島に引きつけられる人間たちは、人間関係が空虚を解消してくれるとどこかで幻想を抱いている。だから度重なる暴走にも関わらず木島と離れられない。

物語のクライマックスでは、何かに決着がつくわけではない。

嵐の中で包丁を差し向け合うことも劇中で言う「他愛のない」行為なのだから。この空虚の手の負えなさに比べたら、それはもう他愛のないものに過ぎない。

それは真空パックされた激しさだ。そのパックは、冒頭で中村の買い物袋から突き出た包丁の刃先のように簡単には突き破れない。

何をしても、泥の中で殴りあっても、お互いの隔たりを超えられない。だからこそ「この物語には君は関係ない」と中村は木島に言い放つのだし、木島もそれに反論があるわけでもなさそうだ。

すげー絶望を描いている。これは確かに現代を覆う空虚そのものであるかもしれない。でも、僕もまた「この物語は僕と関係ない」と言い放つこともできる。むしろ鬱陶しいくらい否応なく繋がってしまっていることを苦く笑う物語もあり得るだろう。

侍ってのはたぶん、その物語と物語の隔壁に鋭い刃を突き立てて痛みで世界を横断結合させることのできる何かのことなんだろうね。