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クレバスと炸薬亭

映画や本、お芝居などのレビューを中心にやってくよ。

賭ける仏教/0に落ちるルーレットの玉

高村薫の『太陽を曳く馬』を読んでいます。

今年一番の読み応えのある作品かもしれません。オウム真理教の事件、そして9・11と時代の流れの中で人間の精神性の変貌と、またその不変性を問うた作品です。

禅宗をはじめとする仏教や、ヨーガに連なるインド哲学の用語が飛び交い、エンターテイメントしては難しすぎるのですが、その筋の人にも滅茶苦茶面白いかもしれません。

ですが、このレビューは後日気合を入れてやるとして、今回はこの小説の副読本のような形で借りた『賭ける仏教』(南直哉)を。

なぜ、この本が副読本なのかというと著者の禅僧である南さんが、『太陽を曳く馬』の中に出てくるある人物のモデルであると噂されているからなのでした。

二つの本を読むと、まさに南さんが小説の中で話しているような錯覚に捉われます。それほど実在の僧である南さんと、作中のキャラクターの口吻が似ているのです。

でもね、これはモデルではないそう。

小説の力というのか、作者の想像力が現実を引き寄せたとでも言うのでしょうか。まったく取材も確たる情報提供もしていないのに、現実に存在する非常に理知的かつストイックな禅僧の姿を作中に移し込んだのだというのだからすごい。

さて、この賭ける仏教ですが、実際に南さんが過ごした永平寺の様子をわりとざっくばらんに語る部分もあって面白いです。

誰もが思う男の性欲の問題も、ここでは語られています。

食欲・睡眠欲などは、つまるところそれを満たさなければ死ぬ。死なないにしても、修行を続けられないくらいのダメージを負う可能性がある。しかし、性欲はそれを発散させなくても、生死とはとりあえず無関係である。

無関係であるがゆえに、宗教ではそれを食い止めろ、負けるな、禁欲せよ、と促される。でも、だからといって、それは、とくに20代の頃であれば、抗いがたいパワーでこみあげてくるものなのだ!

女性の方はわからない感覚かもしれません。ごめんなさい。

ここらへんは上品とは言いがたいシモの話ではありますが、それでも宗教と性欲の関係はいつの時代も軽視できない。

それを抑圧するか、利用するか、で修行の形態が変わってくるのでしょうね。ぶっちゃけ南さんはそれを抑えつけるのを諦めて自分で処理してたそうです笑

それもいいのでしょう。だってどうしようもないもの。

性的なエネルギーを利用して身体感覚を駆使した修行に傾いていまえば、それは密教になってしまい禅宗の方法論からは外れてしまうのでしょうし、そこらへんの機微と葛藤を詳しく描いた作品が先述の『太陽を曳く馬』なんですよね。

もろもろの欲望があり、その欲望を超えていこうする自我があり、その自我をさらに振り落とそうとする名前のない何かがある。

その何かに辿りつこうとするのが宗教的情熱なんでしょうし、信仰と呼ばれるものなんでしょうが、この2冊の本を読むとけっこう多難な道に見えます。

もしかしたら難しく描きすぎているのかもしれません。もっと本当はシンプルなものである可能性だってあります。

それにしても、その何かを目指すためには、とりあえず自分の信じる方法論や教えを選ぶ必要がある。それがとてつもない間違いであることも在りえるけれど、賭けなければはじまらない。

その何かすら本当は存在しないというのが仏教なんだっけ? 最強のニヒリズム

だとしても賭けの場には立たなければならない。他のギャンブラーと同じく。

どこに賭けても負けるかもしれない。玉に0に止まったとき、奇数でも偶数でもないとされ、ルーレットでもアウトサイドベットに関してはディーラーの取り分になってしまうように。

いや、偶寄のどちらでもない、赤でも黒でも升目、勝ち目の薄いゼロにはじめから賭けてみるのが仏教徒かもしれない。あのゼロが「空」というやつなのかもしれない。

『太陽を曳く馬』下巻残りもう少しなんでやっつけてしまいます。

どちらも本にも落ちているのはオウムの影。