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クレバスと炸薬亭

映画や本、お芝居などのレビューを中心にやってくよ。

神の数式

NHKスペシャルで「神の数式」を観ました。

第一回だけで二回は見逃してしまったことが悔やまれます。そこには素粒子の世界から大宇宙まで、言うなれば森羅万象のすべてをカヴァーするひとつの定理を求める科学者たちの希求があります。

万物理論=セオリー・オブ・エブリシングっていうのかな。

ともかくそれは究極の「1」を求める苦闘なんだね。すべての現象がひとつの数式に収束するであろうと考える科学者たちの信念は、もしろ宗教的なものとも取れる。

うちゅうがそんなにエレガントであるという保証はない。が、そうあってほしいというある理想が彼らを突き動かしている。すべてに法則があるというのも、実はなんの保証もない信念なのだ。

そういう意味で科学者たちは非常に敬虔な人種だということがわかる。それは、明日崩れてしまうかもしれない物理の再現性をそれでも永遠のものとして信じ、世界の向こうにあるグランドデザインに眼を凝らそうとするその姿勢によって、そう言える。

まさに、第一回の放送では、究極の数式にはあらゆる「対称性」がなければならないという美的信念のもとに科学者は数式を組み立てるのだ。

ヒッグス粒子は、そんな理想の形を追求した結果、遡及的に見出されるはずの素粒子だった。

まずは美しい理論があったのだ。それに必要だがまだ観測されていない材料としてヒッグス粒子が予見され、そして実際に見つかった。

これは実証された現実からすべてを導き出す科学の手法としては転倒しているかもしれない。

ニュートンは落ちるリンゴを見て重力を発見したといわれているが、重力の存在を先に予見しておいて、その証拠としての落ちるリンゴを求めるようなものだ。手続きが逆になっている。そして宇宙が美しいデザインであるという信念こそが真理を書き換えていくようさえ見える。

しかし、究極の「1」である神の秩序は、現実においては完璧には表現されえないということも発見されてしまった。

それも僕には興味深かった。

完全なイデアに穿たれたわずかな疵は、変化と展開、そして多様性、なにより僕らがリアリティと呼び習わしているものを生み出すような気がするのだ。

そんな世界でこそ完全を求めるという営為が成立するのだし、不完全がなければ、われわれは完全なる美や愛という概念にすら至りつけないだろう。だから、言うなれば、完全性からわずかに撤退した部分、わずかな欠落すらも、やはり完全なる企図の一部なのである。

あれ、真面目だな今日は。