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クレバスと炸薬亭

映画や本、お芝居などのレビューを中心にやってくよ。

戦うことについて

風立ちぬを観ました。

さまざまな感想を持ちましたし、このブログにも書いたかもしれませんが、ちょっと武術に寄り添って何かを考えてみたいと思いました。

この映画の中での「飛行機」は美しいけれど呪われたものである。

だからこそそれを作ることには罪悪感が伴い、それを振り払う意志の突破力が必要とされる。

主人公堀越二郎が戦争は嫌いだが、兵器には魅せられた人間で、ある逃れられぬ葛藤の中でゼロ戦とそこへ結実する数々の戦闘機たちを作り上げたのだろう。

町山さんも解説していたけれど、スピルバーグも戦争嫌いでありながら、戦争マニアでもあるのだった。それが両立するところが人間のしなやかさではないでしょうか。あるいは哀れな業であるとする人もいるでしょう。

僕が武術を学んでいるとしても、それは闘争や暴力が好きだということはないのです。当たり前ですが、当たり前だろ、と言い切れない不穏な部分も自分の中に抱えています。

しかし、直接的な暴力の技術を習うことによって、そのほの暗い暴力衝動が意識の上の明るみに浮上してくるのがわかりました。

形なく突発的に噴出するエネルギーは、それがそのものずばり破壊的なフォームであっても、いやそうであってこそ、うまく様式化され、統御されるという面があるのではないでしょうか。

もちろん、刀剣や銃、つまり人を害するために企図されたものに嫌悪を感じる人を唾棄するつもりはありません。それはあまりに当然の心理だからです。

しかし、だとしても、それを宇宙の果てに投機してしまうわけにもいきません。その機能性と美しさから大きな益を受けているのが、人類の文明だからです。

それは悲しい推進力です。

武術をやっているとわかります。それが戦争機械を発想することあまり変わらないことに。

破壊効率を求め、隠密遂行性を高め、かく乱と眩惑を産出すること。それってまぁ、戦争準備だよね。

やってるとわかるけど、やればやるほど自分の強さについての自信はなくなっていきます。なにがなんだかわからなくなってくる。習い始めが一番自信があったとような笑

つまり、武力を高めたとしても戦いたくなるわけではないのです。それよりもむしろ、そんなものから遠ざかりたくなる。余裕ができるというわけではないです。

本当に「強さ」というものが儚く揺らめいている不安定なものだということが実感として知れてくるのです。

そんなものを頼りにはとてもできない。霧や煙を手すりに階段を下るようなもの? 下手なたとえだけどさ。

もしかしたら本物の「強さ」が手に入ったら、別の精神になるのかもしれないません。そのわずかな希望を欲して懲りずに練習をします。。。