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クレバスと炸薬亭

映画や本、お芝居などのレビューを中心にやってくよ。

親鸞/河原者哀歌

今回の見切り発車レビューは五木寛之親鸞』です。

なぜ見切り発車かというと、これはまだ完結していないうえに、文庫本の最初に一冊を昨日読み終えたばかりだからです。親鸞の若き時代は、後白河上皇院政に重なるのですね。

この物語、かなりのフィクションを含んでいるのでしょうが、相当に面白いです。中でも後白河上皇の放埓ぶりが素敵です。今様などの芸術から街賭場のギャンブルにまで凝るかと思えば、ひそかに謀略を練っているという政治家としての一面もあります。

グインサーガの白皙の皇子アルド・ナリスをちょっと思い出しました。

主人公の親鸞、幼名は忠範、僧名は範宴ですが、まだ最初の巻では「親鸞」を名乗るに至っていませんが、彼もまた、人を導く大徳の者でなければ、五逆を犯して意に介さない極悪人にあるほかない放埓者として描かれます。

頑固で純粋ですが、どこか分限を超えた過剰さがあり、権力の中枢に近づくかと思えば、社会の最下層の者たちとも交わります。その振幅の度が彼の不器用さであり不気味さであり、また大いなる可能性なのでしょう。

このあとどうなるか楽しみです。

また、どこまでが史実で保証されている部分なのかも、こういった歴史物では気になるところです。聖徳太子への思慕など本当のところなのかどうか知りたいものです。

六角堂への参篭や奈良の祠での幻視など、聖徳太子にまつわるエピソードが何度も出てくるので無関係ではなさそうなのですが……

ともかく続きが楽しみな小説です。

そして実際の親鸞及び、彼の説いたある念仏浄土の教えにも僕自身個人的に最近の興味の的でもあります。浄土真宗では本尊が「南無阿弥陀仏」の名号であることがあるようだ。

仏の名前が、その言葉と音韻そのものが信仰の中心となるというのはなんか凄いよね。偶像の崇拝が許されていないイスラム教でも「アッラー」の御名が聖典であるクルアーンとともに霊的物質的重要性を孕んでいるけれど、またそれとも微妙に違う気がするもんね。

もうひとつ、親鸞が河原者と言われるアウトサイダーたちに寄せる共感というのを超えた同胞の連帯感もひとつのテーマであります。彼自身の出自にも関わるものですが、この絆が権力や栄華への志向、また腐敗し形骸化した仏教刷新する力、つまり本当の慈悲を培う基盤となるのは明らかです。

社会のメインストリームから外れてしまったとき――それは出世間を謳う仏教徒はもちろんそうであるはずですが――そこから見える風景に魂の故郷の見出せるかどうかという問いであるでしょう。

ただならぬ卑しさ、救いようのない惨めさから立ち上がってくる生のパワー。芸人や娼婦や流浪の聖、武士崩れたち、牛飼童、博徒たち。そんな地獄に落ちるほかないような業深いものたちをすら救うことができないで何が仏道か? 

権威や学問、あるいは栄達への道と成り果ててしまった鈍重な仏教を振り切って世界の隅々、彼方へ彼方へと疾走する親鸞の姿が見られそうです。

さてでは、天台のお山を降りた親鸞がその後どうなるか、引き続き追いかけてみたいと思います。