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クレバスと炸薬亭

映画や本、お芝居などのレビューを中心にやってくよ。

神田明神&ディオゲネスの居る場所。

東京で武術の講習会があり、本部からの参加者として行ってまいりました。

なかなか盛況でした。みなさんお疲れまでした。

さて、毎回、練習の前にプチ観光をするのですが、今回は神田明神を訪ねてみることに。

文化の日ということもあって、こちらも盛況。どこも盛況ですね笑

浅草に似た下町の社で、多くの参拝客、とくに七五三の親子で賑わっておりました。子供が多かったせいなのか、それともカラフルな彩りのせいなのか、はたまた囃子が奏でられていたせいなのか、ともかくどこか遊園地のような雰囲気もあり、活気に満ちてたな。

心を鎮めて自己を内省するという感じの場所ではなかったですが、生活の中に溶け込んだ愉しげな精神的ヘソの役目を担っているのでしょう。地元では。

ああいう地元の社交場を兼ねた神社や教会などは、とてもよいものだと思います。宗教的に厳格な人は眉をひそめるかもしれませんが、そういう人と人とのつなぐ結節点がないと、よい意味でのローカリティがなくなってしまうもんね。

最近、古代ギリシャ関係の著作を読んでいて、乱立する都市国家――アテネやスパルタが有名ですが――というものがどういうものなのか気になってきまいた。市民というものがなんなのか。そいうことが面白く感じられてきました。

当時のギリシャでは、市民の定義は、命をかけて都市を守るものたちであったということです。その都市が掲げ実現したある理想なり徳義なりに賛同し、したからこそ、それに身命を賭せる人のことが「市民」であると考えられたわけです。

そんな中で、都市国家は、交易と戦争を繰り返し、各都市の制度と特徴は様々になり、そこに暮らす人々も多種多様の色合いを呈してきたのでしょう。ある都市に住むということは、自己を定義することになっていったわけです。

多くの思想家や芸術家たちが生まれてきました。中でもソクラテスは有名ですが、彼は実は自らの著作をひとつも残していません。僕が好きなのは、彼の個性的な弟子筋のうちでもとりわけキワドイ男ディオゲネスさんです。

奴隷として売られ、買主におまえは何ができるのかと問われ、「わたしは人を支配することができる」と答えたのは有名な話です。昼間にランプを掲げて広場に現れ、何をしている、と問われ「人間を探している」と言ったとか、面白いエピソード目白押しです。

すげーよね。樽の中に住んでたらしいし。人前で自慰もしました笑

今回は神田明神に行ってみて、ギリシャのオリンポスの神殿はどんな雰囲気だったのかなぁーと考えてしまいました。

多神教の神殿はわりと雑駁で漲る人のエネルギーで沸き立っていたのではないでしょうか。おごそかな張り詰めた緊張感の中で神と対話したというよりは、猥雑なノイズの中にこそ、人は神託を読み取ったのかもしれません。

ディオゲネスも樽に住んでいたほかに、神殿や倉庫に寝泊りしていたというので、当時の宗教施設はわりと寛容だったのでしょう。

ディオゲネスのような人の存在を許す場所であるのかどうか、そこがある「場所」を見るときに僕が意識するほとんどすべてです。←言いすぎかも。

浅草にはディオゲネスは生息できるでしょう。神田にもいたのかもしれません。逆に青山や六本木ではどうでしょう? 香港や上海のあっちのエリアはどうだろう、とかね。そーいうことを考えるわけ。

もちろん僕は好きなんですよ。ディオゲネスのような人が、そんな人が闊歩できる都市も好き。

社会から蹴り出されても、世間という受け皿があるような、そんなところってやっぱり温もりがあっていいよね。僕が蹴り出されても、誰か居心地のいい樽くらいくれるよね?