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クレバスと炸薬亭

映画や本、お芝居などのレビューを中心にやってくよ。

0と1

先日『人類滅亡計画書』というオムニバス映画を観ました。

でも、今回はレビューではなくて、その中にロボットが悟りを開く話があって、そのエピソードが面白かったのでちょっと触れてみたいと思います。

ロボットはもとから欲望と執着がないので悟りを開くのはたやすいのだ、でも、それを克服するという行為に価値があるのだ。

とか、

そういうんじゃなくてもいいじゃん。開ければさ、悟り。みたいなドライな意見もあり、映画は思想の対決のような状況になりました。

山川草木、一切悉有仏性。

草だの木だのにも仏性は備わっているのですから、ロボットならいわずもがなでしょう。

映画の中に出てくる問答もなかなか素晴らしいので是非観てほしい映画ですね。ただ、執着や欲望のないロボットがいくら悟りを開いてもOKですが、人間を導くことはできないかもしれません。なぜなら、欲望や執着にとらわれる苦しみ哀しみを知らないのですから。

そこが興味深く観られたこの映画に残るわずかな不満、というか物足りなさだったかも。劇中では平気で説法してたからね。それは無理だろうとおもったよ。

さて、僕の周囲ではヴィッパサナー瞑想に行くだの行かないだのと盛り上がっている人たちがいますが、行けばいいのにね笑

なかなか集中的に瞑想できる期間を取るというのは難しいものですからね。

何か大切な気付きが得られるかもしれません。僕はどうでしょうね。ちょっとそういう集団的なところに行くと和を乱すような気もします。

自分のしてるほうがいいかな。十分個人的にも時間は取れるしね。

最近は、瞑想をしていて、0と1の違いについて思い至りました。

精確に言うと、0→1 無→有 という飛躍についてです。

1→2 2→3 3→4 というのは「有」の加算です。有から有への増加。

0→1のような本質的なジャンプはありません。

中華思想では、こうですね。

無極(0)→太極(1)→両義(2)→四象(4)→八卦(8)

または、

無(0)から有(1)が生まれ、1が2になり、3へ。そして3から万物(∞)が生まれたとされています。

0~1の差も45~46の差も同じ1ですけど、そこにはまったく根源的な違いがあって、いかんともしがたいのです。とてつもない溝が0と1の間にはあって、そこをたかが1の差だよと黙殺することはできないよね。

0が1になるのは、果たして時間的な変化なのでしょうか。無いから在るへのジャンプは時間という限定された枠組みの中で可能なのか、僕には、それが同時的なものでないと不可能に思えます。

0は1になるのではなくて、もともと0でありながら1でないといけないのではないでしょうか。そしてあらゆる数は1の壮大なヴァリエーションなので、同時に0であるのです。

これは数学的に厳密な作業ではなくて、たんなる直感と妄想の産物なのであしからず。

0と1は同じコインの表裏で、同時にそれは存在しているのです。我々の見方が、見る角度が有と無を決めるのでしょう。それは一方の面(0)において姿をかき消してしまう手品のコインなのかもしれません。だから、同じコインの表裏とは知りつつも、0の面を僕たちは眼にすることはできないのです。

もちろん、それは僕らは1(有)の世界にいるためです。いや、正しくは両方に片足ずつ突っ込んでいるのですが、意識は1の世界にしか自分はいないと思い込んでいるのでしょう。

ややこしい話になりました。抽象的な概念を弄んでみるのも愉快なものです。