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クレバスと炸薬亭

映画や本、お芝居などのレビューを中心にやってくよ。

幻覚&妄想大会

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べてるの家

ご存知でしょうか。映像を観てもらえばわかるのですが、精神障害を患った方たちの施設です。

障害と折り合いをつけながら、積極的に社会参加し、また地域の人たちも、それを受け入れてくれています。

僕は田口ランディさんの本、それから武田鉄也さんのラジオ番組などで知ったのですが、薬などを使わず、自分の症状や苦しみなどを他者と共有することによって、病を軽減していくという、そんなコンセプトの施設です。

前回の記事では「死」というものを見つめたキューブラー・ロスのことを取り上げました。「精神障害」もまたある意味ネガティブなものとして世間ではパッケージされているもののひとつではないでしょうか。

そういったものを見つめ、寄り添うことのできる環境が現代において少しずつでも整備されているというのは希望です。忌むべきものとしてなるべく見えないように目立たぬように封じ込めらている死や精神の病が、やはり人間というものの愛おしさや可能性を教えてくれたりします。

もちろん、べてるの家の取り組みが最善の答えではないでしょう。

事実、患者が他の患者を殺してしまうという事件がおきました。

これについては武田鉄也さんのラジオ番組で詳しく取り扱われていたので、そちらを聴いてもらうといいかもしれません。自発性を尊重していたべてるの家では、刃物の持ち込みのチェックなどを行っていませんでした。

そして、そのことでマスコミやメディア、そして既存の医療の権威に叩かれもしました。

しかし、その後に起きたことについては、報道されませんでした。メディアは、すぐに飽きて別の事件へと流れてしまうものです。

何が起きたのか。それは被害者の遺族が、べてるの家に対して、その活動を決してやめないで続けて欲しいと伝えたのです。また、加害者の家族にも恨みごとを述べるわけでなく、なんと葬式に招いたというのです。

決して何も責めなかったのです。

加害者の家族に対しては、精神疾患の家族を持つ長年の苦しみを知る者としての共感はあれど憎しみなどない、とすべてを赦したのです。

確かに人ひとりが死んでしまったことは取り返しのつかないことですが、死の瞬間までをどのように生きられたかということにも視線を向けるべきでしょう。

心をすり減らしてまで生きていかなければいけない社会、できるだけ自分を鈍感に無神経にして適応することもできます。それを「強さ」や「成熟」だと勘違いすることもできるでしょう。

ただ、そうしてまで生きていたくない人も存在してて、それは自殺や精神の病といった形で現象化する。治すべきなのは人なのか社会なのか?

最近涙もろくて、また泣いてしまいました。

あ、そうそう、このべてるの家では、自分の幻覚や妄想を発表し合う大会があります。これも凄いよね。普通キ〇ガイの妄想なんて蔑まれて絶対に取り合ってもらえないモノを、来場者まで募って聞かせるんですから。

面白がっていいのです。そこに嘲笑がなければ。実際、妄想のいくつかはユニークなものです。従来では、かろうじて芸術や文学の分野でしか生き延びられなかった妄想の世界が、あけっぴろげにここでは披露することができる。

この解放感がいいです。