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クレバスと炸薬亭

映画や本、お芝居などのレビューを中心にやってくよ。

敵はいつでも私より強い

ある武術家が、その方の師匠にあたる方から聞いたという台詞。

「敵はいつでも自分より強い」

師匠は名人・達人と呼ばれるほどの人だったため、ただ謙遜しているのだろうと考えていたが、深く尋ねてみるとどうやら正直な気持ちだったというので、その言葉を拝聴する弟子たちは驚いたそうな。

これほどの実力者ともなれば、彼を凌ぐ敵手などそうそう存在しないはずであるのに……でも本気で言っている。

スポーツや格闘技であれば、自分の能力を信じることなしには最高のパフォーマンスを得られるはずがない。では、武術ではどうしてそうでなくてもいいのか。

それは……武術とは、いつも自分より権力も数も武力も勝っている相手と戦うためのものだったからだ。いや、戦うのではなく、なんとか生き残るためのものだった。

抑圧者から自分と自分の愛するものの命を守るためのものであり、ことさら自分の優位やら才能やらを誇示するためのものではなかった。最初から劣位に置かれた者が辛うじて取りうるなけなしの手段であれば、もとより華々しい勝利を望むはずもない。

たとえば、空手は大陸から伝わった武術が、琉球王国で独自の発展と進化を遂げたものだ。

王国である限りは民衆は多少は搾取されていたはずだし、その王国の施政者たちですら、大陸の強国や日本との間に挟まれ戦々恐々としていたはずだ。つまり二重三重に弱者である民衆たちが、細々と命と尊厳をつなぐための技だった。

だから、敵は自分よりいつだってどこだって「強い」のだし、それは当たり前という以前の前提条件だった。元来から強い立場にあるのなら、戦う術など要らない。あるとしたら、それは趣味としての、あるいは健康のための格闘術となるだろう。

そしてそれは本来の武術とはかけ離れたものとならざるを得ない。

と、ここでくだくだしく書き連ねてきたようなことが、達人のぶっきらぼうな一言に詰まっている。ふっと投げ出したような一言に重みと厚みを感じさせるのが達人が達人であるゆえんであります。

間違ってもこの言葉を卑屈ととってはならない。

もちろん「自分は強者である、無限の力と可能性を秘めている」というマインドセットもまた必要である。こっちの方が楽天的でハッピーだしね。

でも、その無限の可能性のうちには、自分を最弱と見なし、世界を荒野と想い定める「視点」も含まれているはず。

そんな脆くはかないフライジャイルな弱さから立ち上がる命の力というものがある。

それは柔軟で軽やかで自由だ。膠着・硬直した強さなどよりよっぽど自由で制限を持たず、本源的に強靭なのだ。