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クレバスと炸薬亭

映画や本、お芝居などのレビューを中心にやってくよ。

ピダハン

ロッド&リールの巻(レビュー)

アマゾン流域の先住民の村に、宣教師として赴いた著者。

そんな人物の悪戦苦闘と発見の記録です。

学者でもある著者の言語学的な考察もふんだんにあり、「ことば」ってなんだろう? という素朴な疑問に立ち返られせてくれる。

まず結論から言うと、彼の布教は成功しなかった。それどころか、ピタバン族と暮らすうちに彼はキリスト教の信仰を失ってしまうのだった。

そしてピタバン族の無神論に心を寄せることになる。このあたりは、この本の肝にあたる部分なので是非機会があれば手にとって読んでもらうことをお勧めする。

面白いのがピタバン族の言葉の特殊さだ。

まず、色や数を表す言葉がない。

「右」と「左」もない。彼らは川の上流か下流かという外部のポイントを起点にして方向を指示する。

受動態がない。

入れ子状になった用法がない。

「顔の赤い女の子が橋を渡ってきた」という文は、

「女の子が橋を渡ってきた。顔が赤い」という2文になってしまうという。

並置もできない

「山田か田村のどちらが来るかわからない」なら

「山田が来る。田村が来る。わたしはわからない」となる。

言語が意識や世界観を規定するのだとしたら、彼らがどんな世界を生きているのか、まったく想像もつかない。

彼らの言語表現がシンプルだからといって、彼らの内面が貧しいことにはならない。彼らは込み入った儀式や祭祀、それに創造神話のようなものも持たないけれど、また別の豊かさを獲得しているように見える。

それが西洋的な価値観を打ち砕いたからこそ、著者は棄教してしまったんだろう。

複数の言語を操る人なら経験があるだろうが、言葉を切り替えると自分のパーソナリティーにも変化が起きたように感じることがある。

中国語や英語を話す時、日本語を話す自分とは違うOSで機能しているような気がする。

これがピダハン語だったら、どんな気分だろうか。

彼らには神話も儀式もないのだが、精霊を身近に感じて暮らしている。それは彼らのコスモロジーにおいては実在していて、なんの驚きもない。

特殊なシャーマンでなくても、ピダハンなら誰もがそれを見る。それはもしかしたら霊的な感性の有無ではなくて、たんに言語の問題なのかもと思う。英語が仕向ける世界の捉え方ではアマゾンの精霊は存在できないのだ。

ひとつの言語は、宇宙に散らばる情報の総体をある仕方で組合わせたり編集したりする。サンスクリット語の話者は、サンスクリット語的な世界を観ているのだろうし、ラテン語についてもヘブライ語についても同じだ。

もしかしたら関西弁や東北弁など、同じ日本語でもそういうことが起こるのかもしれない。

最近疑問に思うのは、なぜ関西の人は関西以外の人が関西弁を使うことにあんなに厳しく当たるのかということだ笑

なんでだろう?

僕は名古屋在住だけれど、他県の人が名古屋弁に染まって片言の訛りが出たりすると少し嬉しかったりする。

香港に行っても、北京語や英語より、やはり下手でもいいから広東語で挨拶などすると現地人は喜んでくれた。

基本的に関西の人は世話焼きで面倒見がいいと思う。なのに方言に関してだけはなぜか苛烈なテリトリー意識があるみたいだ。

そこにも何か言語の秘密らしきものがありそうだけど、誰に聞いてもはっきりした理由はわからない。